Site Search
Search within product
§歴史の中の肥料
チリ硝石物語2
京都大学名誉教授
高橋 英一
§北海道における直播栽培キャベツの生育特性と直播適性品種
独立行政法人 農業技術研究機構
北海道農業研究センター 総合研究第2チーム
チーム長 山縣 真人
§技術相談問答のよもやま話(5)
独立行政法人 農業技術研究機構
野菜茶業研究所 研究技術情報官
農学博士 中島 武彦
§肥料と切手よもやま話(6)
越野 正義
京都大学名誉教授
高橋 英一
アメリカ大陸は新大陸とも呼ばれるが,人類の歴史においてアメリカ大陸は長らく無人のままであった。
今から12万年前から1万5,000年前まで,10万年余り続いたウルム氷期には,大陸での氷河の発達によって,海面は現在より100m も低かった。そのためユーラシア大陸とアメリカ大陸とを隔てている現在のベーリング海峡は陸橋(べーリンジャ)になっており,両大陸は陸続きであった。
ユーラシア大陸の北東部で狩猟生活を送っていたモンゴール系の人達の主な狩りの対象は,マンモスや大鹿などの大型獣あった。しかしこれらが寒冷化などの原因によって減少し絶滅するに及んで,今から1万2,000年前頃に彼らはベーリンジャを通ってアメリカ大陸に進出してきた(カナデイアンエスキモーとして定着)。
そして南下を続け,1万1,150年前にはメキシコ湾に辿り着き(アメリカインデイアンとして定着),1万930年前にはパナマ地峡を越え(にマヤ文明を築く),1万500年前に遂にアメリカ大陸南端に到着したと推定されている(後にインカ帝国を築く)。
つまり僅か1,500年程で,無人の大陸(新大陸)全体が,渡来してきた人類(インデイオ)によって占領されてしまったわけである。しかしその後約1万年を経た16 世紀以降,今度は大西洋を渡って,旧大陸西部からヨーロッパ人の集団が新大陸ヘ移動して来た。そして彼らによって先住民であったインデイオ達は征服されることになる。
インカ時代インデイオ達は,16世紀に征服者がやってくる以前から,沿岸の岩礁上のグアノとともにアタカマ沙漠のカリーチエを肥料として利用していた。しかし征服者達は,肥料としてはグアノを用い,チリ硝石はアタカマ沙漠で発見した銀鉱石採掘用の低級な火薬(硝酸ナトリウムは硝酸カリウムにくらべて爆発力が劣る)の原料として,少量を利用するにとどまっていた。
19世紀に入るまで先住民も征服者達も,チリ硝石の大規模な鉱床があることを知らなかった。ところが1809年になって,現在のチリ北部に位置するタラパカ地方で、豊富な鉱床が発見された。
当時のペルー副王(タラパカ地方は最初スペイン植民地のペルー領であった)は,それを硝酸カリウムに変えてリマの火薬工場に供給することを考えたが,その方法を発明したのがドイツ人科学者ヘンケ(Tadeo Haenke)であった。
採掘は1810年から始まり,タラパカの工場で硝酸カリウム(硝石)に変えられ,リマの火薬工場ヘ送られた。硝石産業は,南米のスペイン植民地の独立運動の勃発(1810年)による火薬の需要増大に支えられて発展を始めたが,独立戦争が終息するにつれ沈滞していった(1811年パラグアイ,ヴエネズエラ,エクワドル,1813年メキシコ,コロンビア,1816年アルゼンチン,1818年チリ,1821年ペルー,ドミニカ,1822年ブラジル,1825年ボリビアが相次いで独立)。しかし独立したペルーが,1830年にイキケ港からの硝石の輸出を許可すると,南米大陸以外に新市場を開拓することが可能になったため,回復に向かった。時あたかもヨーロッパは,1830年のフランスの7月革命をきっかけに国際情勢が緊迫化し,火薬の需要が高まっていた(図1)。

丁度この頃,すなわち1835年7月にダーウインがタラパカの硝石工場を視察している。そのときの様子は彼の「ビーグル号航海記」に記されているので,少し長くなるが抜粋紹介する(島地威雄氏訳の岩波文庫3)による)。
「1835年7月12日われわれはペルーの海岸南緯20度12分にあるイキケの港に錨を下ろした。町は1000人の住民が居り,この海岸をつくっている2,000フィートの高さの大きな岸壁の麓の小さな砂原にある。すべて全く砂漠である。幾年かの長い年月のうちに,軽い驟雨が一回あるだけである。山峡は従って岩の砕屑で充満し,山腹は1,000フィートの高さまで,白い細かな砂の堆積でおおわれている。この季節の間,重い雲の塊が海上におおいかぶさり,海岸の岩壁の上に立ち昇ることはまれである。この場所の外観は極めて陰鬱だった。わずかばかりの船と,みすぼらしい家の小群とがある小さな港は,周囲のもののたたずまいと全く桁ちがいで,圧倒されて見えた。
住民たちは船上の人のような生活をしている。あらゆる必需品は遠くから来る。水は40マイル北方のピサグワ(Pisagua)から小舟で運んで,18ガロンの樽を9リール(4シリング6ペンス)の割で売る。私は葡萄酒の瓶に1杯分3ペンスで買った。同様にして薪も,もちろんあらゆる食料品も移入される。こうした土地には極めて僅かな獣が養われている。次の朝,硝酸ソーダの製造所までゆくのに,私は苦心して4ポンドスターリングの値で二頭の騾馬と一人の案内者を雇った。硝酸ソーダは現在のところイキケを支持している。この塩類は1830年にはじめて輸出された。一年間に10万ポンドスターリングの価格だけの量がフランスとイギリスとに送られた。これは主として肥料として,また硝酸の製造に使用される。潮解性のために火薬としては役に立たない。以前はこの付近に極めて豊産な銀山が二ヵ所あったが,その産出量は今は非常に少ない。(後略)」
「7月13日朝,14リーグ(約70km)隔たった硝石工場に出立した。嶮しい海岸山脈にジグザグの砂道を昇って,われわれはまもなく,グンタハヤ(Guntajaya)とサンタロサ(St. Rosa)の鉱山が見えるところまで来た。この二つの村は鉱山のすぐ入り口にあった。山の上にまるで乗っているので,イキケの町よりさらに不自然な荒涼とした眺めだった。起伏のある全くひどい砂漠を越えて,終日騾馬を駆って,日没後ようやく鉱山についた。(中略)
この地方の外観は,普通の塩の厚い層におおわれていることと,硝石を含む層状の沖積層のために特色が著しい。この硝石の層は,陸が海面からおもむろに上昇したときに堆積したものと思われる。この塩類は白く,はなはだ固くて緻密である。それは水のため摩滅して丸くなって,凝集した砂から突出している鉱瘤の中にあって,石膏を多量に混えている。この地表にある集塊の外観は,降雪の後,その最後の汚い斑点が溶け切らぬ景色にひどく似ていた。この溶けやすい物質の殻が,この地方全体にあることは,いかに長年月にわたって,気候が異常に乾燥していたかを示している。
夜はある硝石の鉱山の持ち主の家に寝た。この辺りは海岸の付近と同じように不毛である。しかし水はややにがく塩気を含んでいたが,掘り井戸から得られた。この家の井戸の深さは36ヤードあった。雨はほとんど降らぬので,この水は雨によるものでないのは明らかである。もし雨水によるものであったら,海水のように塩辛かったに相違ない。周囲の地域は種々の塩類で,殻ができていたからである。従ってその水は遠く距離をヘだてているが,コルデイエラから地下を濾過して来たものと結論しなければならない。その方向に当たって,少数の小さな村がある。そこでは住民はここよりも水を多く得て,わずかな土地を灌漑し得,藁をつくって,それで硝石を運ぶ騾馬や驢馬を飼っている。硝酸ソーダは,今は船の現場では100ポンドにつき14シリングで売られている。その主な費用は海岸までの運賃である。鉱床は厚さ2~3フィートの固い層で,少量の硝酸ソーダが多量の普通の塩と混ざっている。その層は地表直下にあって,大きな平原,あるいは盆地の縁に,150マイルの長さにわたっている。これはその輪郭から推して,以前は湖か,あるいは塩性の層の中のヨードの塩類の存在からみて更に確からしいのは,内陸に深く入り込んだ海であったに相違ない。平原の表面は太平洋を抜くこと3,300 フィートである。」
これらの記述は,当時ペルー領であったタラパカ地方(1879年に始まった太平洋戦争でチリ領になる)の岩塩沙漠の荒涼とした風景を紡御させる。また製品の硝石を積み出し港まで運ぶのが,如何に困難を極めたかも推察できる。
この時期(1810・1850年)における硝石生産は,パラダース法あるいは直火法と呼ばれる原始的な工程で行われていた。
すなわちまず地面を爆薬を使って掘り返して,カリーチエを手作業で選び出す。ついでカリーチエを細かく砕き,銅製の平釜に入れて水を加え,竈で熱する。燃料は豆がらである。硝酸ナトリウムは他の成分より溶け易いので,不純物の塩化ナトリウムなどが分離,沈殿してくるのを待って,残った煮汁を別の容器に移して冷やすと,硝酸ナトリウムが析出する。これを取り出して天日にさらし,乾燥させて製品にする。
工程は極めて労働集約的であるが,ダーウインの記述にもあるように,製品の船積み価格の大半は海岸までの運賃であった。当時,唯一の輸送手段は急峻な山道を越えることのできる家畜(騾馬や驢馬)であり,その費用(飼料代など)が大半を占めていたといわれる。
タラパカのチリ硝石産業は,1850年代に入って大きく飛躍した。チリ硝石の域内での生産と消費が始まったばかりの1813年の生産量は約3,500トンであったが,輸出開始後の1830~1840年間の年平均輸出量は12,000トンに増加し,更に1850~1867年間の年平均輸出量は63,000トンに飛躍した。
しかしその輸出は,国際貿易港として発展しつつあったチリのバルパライソ港を経由して行われた。当時ペルーの領土であったタラパカ産の硝石が,ヨーロッパでチリ硝石と呼ばれていたのはこのためである。
チリ硝石輸出の飛躍的な伸びはクリミヤ戦争(1853~1856)の勃発が,チリ硝石価格を急騰させたことによっている。すなわち1851年には50kg当たり14シリング3ペンスであったものが,1853年には18シリング6ペンスと三割も上昇し,1857年までこの高値を維持した。
戦争終結後価格は下落し10年近く低迷するが,この間に新しい状況が生まれた。それは1860年代になって,チリ硝石が供給力の減少しつつあったグアノに代わる新しい肥料資源として,欧米で注目され始めたことである。これは平和な時代においても,チリ硝石に対する大きな需要を生む道をひらくものであった。
またこの時期には,精製法にも技術革新が起こった。それは直火でなく,水蒸気を用いて短時間にカリーチエを溶解させるガンボーニ法の開発(1852年頃)であった。
それまでのパラーダス法では,高品位(硝酸ナトリウム含有率60~80%)のカリーチエしか処理できなかったのに対して,ガンボーニ法は質の悪いカリーチエ(含有率40~50%)も処理することができ,純度の高い製品が得られた。この新しい方法は,高品位のカリーチエが枯渇し始めた1860年代の要請にこたえるものであった。
さらにこの頃から,燃料として従来の豆がらに代わって,石炭の使用が広がり始めた。これによってタラパカの乏しい燃料資源に制約されなくなり,豆がらの運搬に用いられていた騾馬を,硝石輸送に転用することも可能になった。
ペル一人の企業家とペル一国内の労働力によって始められた硝石産業は,発展するにつれて外国企業家の関心と労働力不足を引き起こすようになった。その結果チリやヨーロッパ系企業の参入が始まり,ペル一系企業は衰退していった。またチリ人労働者の,ペルー領であったタラパカ地方への移住が始まった。
こうして硝石地帯は,次第に国際紛争の舞台になっていった。
1)湯浅越夫:環境と文明,29-30新評論(1993)
2)岡本哲史:19世紀ラテンアメリカにおける硝石産業の担い手-第1期と第2期- エコノミクス第3巻第1号125-162(1998)
3)チャールス ダーウイン著,島地威雄訳:ビーグル号航海記 中巻,282-286 岩波文庫(1960)
独立行政法人 農業技術研究機構
北海道農業研究センター 総合研究第2チーム
チーム長 山縣 真人
北海道十勝地方の大規模畑輪作地帯においては,畑作4品といわれる小麦・てんさい・ばれいしょ・豆類を中心として農家当り平均30ha規模の畑輪作が営まれているが,いずれも生産者価格が伸び悩んでおり,収益向上のため野菜作の導入が進められてきている。ニンジン,ゴボウ,ナガイモなど根菜類についてはかなり普及・定着が進んだが,葉菜類については機械化がなかなか進まないため,昨今の労力不足の現状では輪作作物としての安定した普及が困難な状況である。
とくにキャベツにおいては,収穫作業に最も時間がかかり,大雑把にいって58時間/10aの全作業時間に対して,半分以上の32時間/10aを要している。さらに,育苗・移植に12時間/10aかかり,これらの作業を直播・機械収穫により省力化することで,全体として作業時間の大幅な短縮と低コスト化が見込める。他方,移植栽培では,移植時に苗の大きさ・質を揃えられるが,直播栽培では生育を揃えることが難しく,また,機械収穫では,群落が収穫適期に達したところで,一斉に収穫するので,手作業のように収穫適期に達した球の選択収穫により収穫歩留まりを確保することはできないなど,直播・機械収穫体系を実現するにはクリアすべき技術的な課題が多い。
北海道農業研究センター総合研究第2チームでは,キャベツについて,直播による播種の省力化と機械による収穫の軽労化を図り,畑輪作体系への導入と定着のための実証研究を行なっている。ここでは,機械収穫に適した球の斉一化を直播で実現するため,まず,直播栽培キャベツの生育特性と品種間差異について明らかにした。
キャベツの直播には,4連の施肥播種機(田端農機TJEB-4WR,施肥ダブルタンク・容量繰出し)を用い,施肥部では,速効性の化成肥料(S121化成,成分10-20-10)を40kg/10a(窒素4kg/10a)と緩効性の被覆肥料(ロング40日タイプ,成分14-12-14)を100kg/10a(窒素14kg/10a),窒素計18kg/10aを,表層より8cm深,9cm間隔の両側条となるように施用した。より一層の省力のため,ロング肥料を用いることにより全量基肥とした。
次いで,播種部においてキャベツのペレット種子を1.5cm深,2粒で播種してから,種子の覆土の際に殺虫剤オルトランを散布してローラで鎮圧した(図1)。播種密度は4780株/10a(66×31.7cm)であった。播種後に除草剤トレファノサイドを散布した。3葉期に1本立てとし,2~3葉期以降,球肥大中期まで,殺虫剤,殺菌剤を1~2週間毎に散布,3葉期より6~7葉期まではタイン・カルチを用いた機械除草を行なった(図2)。


直播と移植を比較するため,2001年6月の3作型についてサワ一系4品種(楽園,涼藍,藍春ゴールド,金系201EX)をそれぞれ直播と移植で栽培した(図3,4)。移植については,25日程度の苗を用い,速効性肥量により窒素を基肥(NS262化成,成分12-16-12)15 kg/10aの全面全層施用に追肥(NKC6化成,成分17-0-17)7kg/10aの表面散布で,窒素計22kg/10aを施用した。


播種後49日(10葉期)の生育の様子を,キャベツ株真上からの画像より計測した葉面積で比較すると,4品種とも直播の方が生育量が大きく,品種間では,楽園と涼藍において大きかった(図5)。

しかし,収穫時においては外葉の生育量は,直播と移植では変わらず,品種間では涼藍で少し大きかった(図6)。これは,直播と移植では同じ日に播種しても,移植の場合は移植直後に1週間くらい生育の停滞があり,同一日で生育を比較すれば直播の方が生育が進んでいるように見えるが,同じ生育ステージならば直播も移植も生育量は変わらないことを示す。

球重が1~1.6kgで,病虫害や生理障害のない球の重量を収量としたとき,どの品種も,移植に比べ,直播でもほぼ遜色なく取れ,楽園と涼藍では直播においても4t/10aレベルの収量を確保できた(図7)。ただし,藍春ゴールドの場合は病害発生のため低収であった。もっと詳しく収量をみるため,球重巾150g毎の度数分布をとると,楽園において球重の分布巾が狭い,すなわち球の斉一性が高く,逆に金系201EXでは分布が広く斉一度が低かった(図8)。


また,同じ品種であれば,直播,移植にかかわらず,球重の分布の傾向はあまり変わらなかったことから,一斉機械収穫のカギを握る球の斉一性は,品種特性に大きく依存しているように見えた。さらに,キャベツ球重のバラツキ度をCV(球重の標準偏差を平均値で割った値)で表すと,楽園の直播で20%,金系201EXの直播で30%くらいというように斉一度が品種により異なることがよりはっきりと見て取れる(図9)。このように,用いた4品種のうち,楽園がキャベツの機械収穫に最も適していることがわかる。

実際には,直播・機械収穫によりキャベツを生産するには,間引きを省くために出芽率が高いこと,雑草に打ち勝っために初期生育が早いこと,かつ生育の斉一性が高いことが求められる。こうした条件を満たす品種をまず選び,次に,栽培方法の向上により出芽・苗だち率を高め,初期生育の促進,養分供給および球重を規格内に揃えることで達成できる。現在,このための栽培体系を完成し,当研究チームで開発した収穫・調製・箱詰めを連続して圃場で行なうことが可能なトレーラ伴走方式機械収穫システム(特許出願中,図10)を用いて,2~3ha規模のキャベツ生産に向けた直播・機械収穫体系の実証を行なっているところである。

独立行政法人 農業技術研究機構
野菜茶業研究所 研究技術情報官
農学博士 中島 武彦
野菜の安全性に関する質問も多い。7年前に職員やQ&Aの情報提供者に無農薬野菜の範囲を問うたことがある。設問は「①アブラムシを指で摘んで殺す,②コナジラミやハモグリバエを黄色の粘着テープで誘殺する,③アブラムシを牛乳で駆除する,④フェロモンなど性ホルモン剤でコナガの増殖を抑制する,⑤オンシツコナジラミを防除するために天敵のオンシツツヤコバチを飛ばす,⑥木酢液など植物由来の物質を葉に散布する」の6項目とした。
この中で『無農薬野菜として許されるのはどれですか?』と尋ねたところ,大半は『①から⑤が無農薬野菜として許されるだろう』と言う回答が多く,⑥は除外される結果となった。⑥の木酸液は炭や籾殻クンタン等の製造中に得られ,酢酸や消毒液のクレゾール,有機溶媒のアセトンなど数十種もの成分を含んでいることが除外の理由であった。
さて,①から⑤の中で③の牛乳は食品であり,食品を散布するのであれば無農薬と考えがちである。市販の牛乳を2~3倍に薄め,展着剤を加えて散布するとアブラムシは動きが鈍くなって死んでしまう。しかし,殺虫を目的とした散布ならば牛乳は無(未?)登録農薬の散布となる。たとえ散布後に腐敗したり,黄色ブドウ球菌の混入が無くても,その生産物への散布を了解していない人々に食べさせてはいけないのである。昨夏,無登録農薬の散布によって大量の野菜や果実が全国的に廃棄されたが,牛乳をアブラムシ駆除のために散布することもそれと同じ所業なのである。
次に,④と⑤は野菜の生育や品質に及ぼす影響はほとんど認められないが,すでにこれらは天敵農薬とか誘引(忌避)剤として農薬登録されている。しかし,天敵に関する宣伝が消費者にまで浸透しているせいか,これらは食品流通局長通達で特別に除外され,有機農産物(有機野菜)として表示して良いことになった。
以上を総合すると①②④⑤が無農薬野菜または有機野菜となる。今回の設問では水は避けた。かん水や降雨によって虫を殺しでも農薬にはならないからである。最近,電気分解で製造する酸性水やアルカリ水は殺菌や殺虫に有効という報告が提出されている。推進者らは安全性を強調するため,農薬登録はせずに済ませたいと考えているが,電気分解が強すぎた場合は葉ヤケなど生育障害が発生することがある。また一方では,水に低濃度の塩酸や苛性ソーダを加えたのと同じ効果があるので,電解水が水か農薬かはもっと時間をかけて論議したほうが良いのではなかろうか?
インターネットは情報量が膨大となり,以下の情報も入手できる。日露戦争の頃に販売が始まり,現在は家庭の常備薬となった「正露丸(忠勇征露丸に由来)」の是非が話題になっている。メーカーは正露丸に入っている木酢はブナなどの木材をいぶし,出てくる煙を冷やして集める天然由来の成分であるから問題はないとの説を展開しているが,薬害オンブスパースン会議は木酢に含まれるクレオソートに発ガンの疑いがあるという情報から安全性には問題があると抗議している。
特に,この会議は正露丸の有効性と安全性についての評価に関する研究を実施し,「正露丸は一般に広く使用されているが,有効性の根拠はなく,腸管内への水分の分泌抑制活性や,腸の蠕動の抑制活性は,毒性の発現用量でのみ活性があり,長期の使用はもちろん,短期に使用することも問題があると考えられ,医薬品としての価値は認められない物質であり,中止すべきである」と結論し,平成12年1月に厚生省と正露丸を製造・販売している19社の製薬企業ヘ「正露丸等クレオソート製剤の販売中止を求める要望書」を送っている (Web1)。
正露丸に含まれる木酢は,野菜生産現場にも浸透しつつある。研究所近辺の農家が米粒大のイボが果皮に発生したオクラを持ち込んで「昨年は出なかった。原因は何か?」と尋ねた。情報官は『多分,収穫終盤で株が弱っている,または肥料不足でしょう。夏場は雨が少なく,かん水をしていないことも関係するでしょう。株が弱っていなければ,追肥とかん水で回復すると思います』と回答した。しかし,農家はある人からこれは病気だから木酢液をかけたほうが良いと言われたらしく,木酢について執拗に尋ねた。丁度居合わせた病害の研究者から『木酢液。とんでもない!!…』との大声が発せられた。要は牛乳ですら農薬として使用できないのに,クレゾールやフェノールなど人体に有害な物質を含んでいる木酢液(安全性は未確認)をどうして散布するのかという一点に絞られた大声であったのである。農家もオクラは売り物にしているので,散布はしないと約束して帰っていった。
西日本の農業改良普及員から「施設イチゴに葉面散布(液肥ではなく,木酢の様な民間資材の類)を気孔が朝開いたタイミングで行うと効果が高いと販売者から聞き,その開き始める時刻を知りたい」という妙なメールが送られてきた。葉面散布剤が葉にいかに吸収されるかを回答する前に,木酢の様な民間資材の類を散布する点に絞り,『木酢液は農薬として認められていないので,これを作物に散布するのは,最近話題になっている無登録農薬と同じでしょう。この薬剤が葉にしみこむ過程についての回答はご勘弁ください』と回答した(液肥の吸収については後述)。
次に,関東の流通業者から「新鮮なオオバを各地から集めているが,時期によっては異臭がすることがある。機械油よりは正露丸の臭いのようだ。農薬によるか?」という質問には閉口させられた。これには『登録されている農薬で油臭くなることは無いでしょう。油臭はいつも揮発しているため,分析しでも検出されないことがあります。毎年,同じ時期にそのような臭いがするのであれば木酢液またはその類似物が散布された可能性もあります。分析会社でクレゾールの多少を調べてもらうことも一つの方法でしょう』と歯切れの悪い回答になってしまった。
農薬に関する質問は当研究所の専門家に任せているが,情報官も若干の体験を持ち合わせているので昔話をしたい。学生時代(’64年),農薬学の教授は「DDTは科学構造が簡単なのに殺虫効果は高く,持続性も抜群である。人体への毒性も低いようなので,これからはこのような塩素を利用した農薬が開発されるべきであり,人類が製造した最高傑作の一つだ」とベタ褒めであった。発明者ミューラーは’48年のノーベル賞に輝いたが,残留毒性が問題となり,’71年に農薬登録が失効,’81年に化学物質の審査及び製造等の規制に関する法律(略称;化審法)の第一種特定化学物質に該当して使用禁止となった。講議内容とは10数年で大きく様変わりしたが,Webを見ると東南アジアの国の中にはマラリア対策のために今も散布されているという(Web2)。マラリアによる死亡が余りにもすさまじいための対応であろうが,まさに毒を以って毒を制する措置が今も採られているようである。
’72年に北海道立中央農業試験場園芸部に最初に就職し,リンゴの研究を志した。当時は腐らん病が猛威をふるい,雪の中で幹を削り取る作業に追われていたが,黒星病の被害も著しかった。農薬メーカーから次々と開発中の薬剤が届けられ,中に黒星病防除に適した薬剤もあった。メーカーに有効と知らせるとともに,その薬剤を毎週のように使用したところ,翌年には薬剤抵抗菌が生まれ,時には散布区のほうが被害が目立つようになり,メーカーが農薬登録を完了する頃には当方での効き目は無くなっていた。
除草剤の2,4Dは’50年に登録,半世紀後も2,4PAとして水田などで使用されているが,ナス農家は着果や果実品質が良好にするため,密かに使用していた。昭和の終わり頃,この除草剤が再登録されないかも知れないという噂が流れ,農家は買いだめするとか,海外まで買いに行くだろうという話題が職場を賑わしたことがある。現在はトマトトーンの散布,蜂による受粉が奨励されているが,一昨年のナス研究会で「品質を良くなるために一部で散布しているらしい」という情報を入手した。これは登録農薬であっても登録が許可されていないナスへの散布であり,使用されていれば無登録農薬であろう。
海外に買いに行く話の圧巻は「スミレックス」である。’81年に開発されたこの殺菌剤は灰色カビ病に著効のあることは末端にまで知られていたが,登録の厳しい日本では見送られて海外購入に拍車をかけた。当時,灰色カビ病に悩まされていた施設農家がスミレックスを買うために韓国ヘ大挙出かけたことがテレビで報道され,異常な雰囲気であったことを記憶している。しかし,この事件をインターネットで入手しようとしたが,これまでのところそれらしい情報は得られていない。それにしても韓国ツアーは不思議な出来事であった。それは「農協さん」と世界に名を馳せた団体が韓国の農業資材店に押しかけ,韓国語のスミレックスの農薬袋を無事に入手したこと,大挙して訪れたにもかかわらず韓国で品切れ騒ぎも無かったこと,国内では無登録農薬をとがめる機関もなかったことなどである。なお,スミレックスは速やかに殺菌剤として登録され,20年後の今日も現役として使用されている。
昨秋,テレビ報道された「無登録農薬」はダイホルタンを中心に話が進められたが,ナフサクという懐かしい名前も出てきた。ナフタリン酢酸(NAA)の略称で,ネットを太くし,果実も大きくする特効薬として温室メロン農家に愛用されていた。’54年に登録され,’76年に失効した植物生長調整剤(農薬)である。27年前,同僚がネット発生中期に2ppmで葉や茎に散布した。2日もすると葉は茎の付け根から反り返り,まるでバリ島の舞姫の手足のように屈曲し,散布は一目瞭然となった。同僚は「葉が裏返しになることによって眠っていた葉緑素が活性化し,光合成が飛躍的に増大するため,果実は1割も大きく,甘さも1%アップしてネットも太くなるのだ」と熱く語ってくれた。
そのナフサクは勤務して2年後にキャンカー(蔓枯れ病)の特効薬であるグルセオフルビンとともに消えてしまったが,その後も密かに使用されていたと言う。番組では「ナフサクが長年使用され続けたのは検知できなかったから」と説明したが,バリ島の舞姫の手足のごとく屈曲する葉を農業指導者は本当に知らなかったのであろうか?
使用できなくなった農薬を回収する事業もWebに掲載されている。PCNB(ペンタクロロニトロベンゼン)剤は’56年から根こぶ病の特効薬として広く使用されていたが,安価代替品の上市に伴って5年前までに販売を取りやめ,農薬登録も’00年には全製品が失効したという。そのPCNB剤に微量のダイオキシンのあることが判明し,農家に残された製品を県レベルで回収していることが載っていた。10数年前に根こぶ病研究者が『この薬剤は根こぶ病に良く効くが発ガン性物質も含まれているようだ。農家は処理効果を高めるため,株当たり施用量を年々増やしているので,そのうち問題になるヨ』と語ってくれたが,問題どころか危険物となってしまった。農薬に関する質問は当方には重荷であるため,そのほとんどは病虫害研究室から情報を提供していただいている。なお,失効した農薬については農薬研究所のホームページ(Web3)の一覧表に掲載されている。
前述の葉面施肥の質問は「気孔が朝開いたタイミングで行うと吸収効果が高いと販売者から聞き,その開き始める時刻を知りたい」である。当方からは『浸透移行性の高い農薬は気孔の開閉にかかわらず,葉全面から吸収されます。しかし浸透性の低い溶液は気孔や水孔からの吸収となるでしょう。水孔は葉縁に偏在するため,吸収は少ないでしょう。一方,気孔から液肥を吸収するという情報は得ていませんが,気孔の孔辺細胞は吸水して肥大すると開き,脱水して萎れると閉じるので,脱水したとき(気孔は閉じている)のほうが吸収されやすいと思います。時刻は孔辺細胞が膨れている早朝は液肥は吸収されにくいと思われます』と回答した。
なお,表皮を構成するクチクラはロウのような物質でできた膜で,葉に傷がついたり,葉内水分が蒸発するのを防ぐ働きをしているとあり,浸透性の低い液肥はクチクラを通過しないと考えた。しかし,この回答に自信がなかったので,情報提供者にも転送したところ,大阪府大の池田英男氏から『液体の吸収についてはほとんどがクチクラ経由なので,気孔の開閉とはあまり関係がありません。45Caを使用して,その吸収と気孔の数や開閉との関係を調べたのですが,関係は認められませんでした。また,吸収時間については,葉の表面で乾かずにいる時間が長いほど吸収は良くなりました。したがって,日中の葉に散布した液体が乾きやすい時間帯は,葉面からの吸収効率は悪くなります』という情報が寄せられた。液肥がクチクラを容易に通過する情報は新鮮であり,質問者や他の情報提供者にはメール転送で速やかに伝えるとともに,Q&Aのデータベースに追加した。
●Web1.http://www.yakugai.gr.jp/seirogan.html
●Web2.http://www.env.go.jp/press/press.php3?serial=1497
●Web3.http://www.acis.go.jp/toroku/sikkou.htm
越野 正義
この切手のランパジウスは肥料にはあまりなじみがないが,石炭ガスを使った照明灯を1799年ドレスデンで始めたドイツの化学者である。右の切手には最初のガス灯が描かれている。石炭ガスは石炭を乾留して作った。ガス灯は日本にも明治の開国とともに導入され,西欧文明の象徴となった。

石炭のガス化とともに生産され始めたのが硫アン(副生)である。石炭1tにつき2~3kgのアンモニアが得られるので,これを硫酸に吸収させた。わが国の硫アンの始まりは1896年に鈴鹿保家がオーストラリアから輸入した副生品である。1901年には東京瓦斯が生産し始めた。合成硫アンが出現する前のことである
ところで副生硫アンといえばその色が問題となった。川島禄郎「肥料学」(1929)にすでにこの色が記載されている。着色物は,タール質夾雑物により灰色または暗褐色,硫化ヒ素により黄色,鉄により淡黄色,シアン化鉄により緑色,フェロシアン化鉄(Ⅲ)により青,硫化鉄により暗色,アニリン色素により緑色,チオシアン酸鉄により赤色を呈し,色彩豊かである。ただし現在の製品は不純物の除去が行われ着色は,ごく淡い。
色の有無は肥効にまったく関係はない。しかし肉眼ですぐわかるだけに案外クレームとなりやすい。リン鉱石の種類を変えただけで色が違うと苦情がくる。去年の肥料と違うといわれるとメーカーは対応に困る。
いっそのこと着色してはと考えても,消雪効果などの使用目的がないと認めてくれない。ブランド均一化効果などの名目ではだめなのだろうか。
(財 日本肥糧検定協会 参与)